No.15

望む結果は?

バスに乗ろうと思ってね、バス停で待ってたのね。
その日は雨でバスも随分遅れてた。
もちろん、このくらいで箱に入ったりはしないの。
「あみん」と同じ覚悟で(古すぎ?)、いつまでも待つ腹積りだから。

遠くに私の乗るバスが見えた。
もう、心踊るね。
朝も乗ったんだけど、再会がこんなに待ち遠しいなんてね。



ささ、いざ乗車!

って時に、

バスがね、バス停の結構手前で止まった訳ですよ。

(福岡のバスは、車体の真ん中付近が乗車口で、前が降車口になってます。)

降車口がバス停の手前ね。




なんで?!


何でもっと前で止まらんの?


みんな両手を広げて待っていたのに!



私と他の乗客の皆様は、
バスと歩道の柵の間の水溜りを、バレリーナ並の足取りで乗車口へ向かいました。

そしてまだ全員が乗りきっていないのに、
運転手さんは「ドアが閉まります。」とアナウンスしましたとさ、
めでたしめでたし。


なんてね、


終われんわ。


仕事を何だと思ってるんだ?!


おまけにブレーキをね、キュってかけるの。
も、キュってね。

満員で立ってたら、カクッってなるやん?
みんなで同時に同じ方向へ、カクッってなってる訳ですよ。



これはね、


もうね、


一言お伝えしないとね。


この頃になると、もう完全に箱の中だから、
伝えようと思うことは
「どうしてそんな運転するんですか?」とか、
「乗車の時はもっと配慮してもらえませんかね?」とかね、
丁寧な言葉に怒りを込めて投げつけることになるのね。


他にお伝えすることはないかなぁって考えてたら、
ふと「何でこの運転手さんはこんな運転するんだろ?」って思った。


なんか嫌なことでもあったんかな?とか、
家族が病気で気になってうっかりしてたのかな?とか、
突然解雇を言い渡された?とか、

もうね、色々想像するわけ。

だからってね、どんな理由があったにしても、
仕事を疎かにしていいということにはならないですよ。



でも理由はともあれ、何も無いならこんな運転はしないはず。



私の目的が「丁寧な運転をしてもらうこと。」であるなら、
伝えるべきことは何だろう。

拗ねた子供や機嫌を損ねている相手を、
たたみかけるように叱ったり、
どんなにまずい事をしたかをわからせようとしたって、
相手は聞き入れるはずがない。
それどころか、返って具合を悪くする。



結局、私が降りる時に伝えたことは、「ありがとうございました。」。
これが正しい答えだったかはわからない。


でも考慮すべきことは、

この運転手さんは、いつも乱暴な運転をしている。と考えるのも、

この運転手さんは、何かあったのかもしれない。と考えるのも、

どちらも想像だということ。
確認した訳じゃないから、どちらも事実ではないということ。


それなら、どちらを選択すれば相手も自分も心地よいだろう?

何かの気付きがあったり、もっと何かをしたいと思うのはどっちの選択だろう?



いつもこの選択を誤る。
怒りにまかせて感情をぶつけたり、
自分の正しさを証明したり、
被った被害について訴えたりしてしまう。

自分のことを思うのと同じように、
相手の気持ちも考える。
自分が故意に手を抜いたり、誤魔化したりすることがあるように、
相手もしてしまうことがあるということ。
相手を責めるほとんどの時、自分のことは棚に上がっている。

人を人として見るということは、
共感する心で、相手を自分と同じように見るということ。

また、原点に立ち戻る必要がある。